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OMURO IKEBANA

ギャラリー


仁和寺にある法師


第四回 『明星院』 御室流 華道理事 八木恵生
  毎日のさりげないあいさつのことば、

  日常の会話や食事の作法、これらはすべて親から子へ、

  孫へといつのまにか伝わります。

  これには、それぞれの家風があると思いますが、

  私たちは日々の生活で生命をちょうだいしていることへの感謝と、

  祈りをわすれてはなりません。

  仏教では、自然といつのまにか身についていくことを

  薫習(くんじゅう)といって大切にします。

  子育てには薫習が大事なのです。

  親から子どもへの薫習、おじいちゃんおばあちゃんから孫への薫習、

  先生から園児への薫習を大事にしなければなりません。

  これらをふまえ、明星院では幼稚園・保育園を運営し

  幼児教育にも深く携わっております。


  仁和寺の標語

  『 手をつなごう 
助けあい 語りあい 信じあい 我らみな仏の子 』 


  日々の生活、3つの
を大切に精進したいものです。


月光山 大日密寺 明 星 院
  開基について史実を伝える的確な記録は残っていませんが毛利輝元公が広島開府の時、

  明星院山に登りて地形を相せしことの記述を見れば天正17年以前より存在していた事がわかります。

  〔毛利輝元の生母妙寿院の菩提寺であったが長州移封後福島正則(1561-1624)が明星院と改めた〕

  境内地が広島城の鬼門に当る所から藩制時代、歴代藩主の祈願所と定められ、毛利家・福島家を経て

  浅野家時代には寺領四百石を賜わり、末寺八ヶ寺を有し大伽藍にして宏壮を極め、

  藩内五ヶ寺の一つとして又、城下真言宗一派の触頭を勤めた名刹であります。

  歴代藩主は親ら当寺に参拝し毎年正、五、九月を祈願の月と定め十二日には

  住職が八人の伴僧を随えて登城し、城中にて大般若転読祈願を修行しました。

  又当寺に於ては鎮国堂(桁行十三間・梁間八間の紫宸殿造りの祈祷堂、内陣は七檀構え)で

  二十九日より二夜三日の間二十人の僧を率いて

  普賢延命尊大法・同護摩供・聖天供・神供等の秘法を厳修し、

  その験は誠に灼で寿命長久・変成男児等藩主の志願悉く成就し、

  維新前に至るまで一日も怠ることなく続けられました。

  天保5(1834)年九代浅野斉粛公の時境内西半を割いて饒津神社を造営したる後は、

  祭祀を司る別当職も兼ねました。

  明治42(1909)年より京都御室御所仁和寺別院となりましたが、

  昭和20(1945)年8月6日原爆により仁王門、赤穂義士堂の倒壊を除き全ての諸堂宇は

  悉く灰燼に帰しました。しかし、一山の法脈は絶えず本堂を再建し、焼失をのがれた秘仏を祀り、

  近郷善男善女の信を集め、今日に至っています。